愛されていることに気づくと、心が穏やかになる。愛されていることに気づかないから、ストレスでイライラする。
■愛は必ずそこにある
どんなにおかしな人だと思われている人であっても、この地救上の誰からも愛されていない人なんてのは、いないもんです。
結局どこかで誰かに愛されている。どこかで誰かに気遣われている。
それが良いか悪いか、好むと好まないというのは、そりゃまあその場そのときその相手によって多少の違いはあるでしょう。
が、それでも重要な事実というのは、ホントの意味で孤独な人なんていないし、完全に誰からも愛されていない人なんていないってことですよ。
それに気づくことができる、つまりはそれを実感することができると、自己承認欲求が満たされる。自分の存在に意味を見いだせる。だからホッとできるし穏やかになれる。
そして、気づくというのは受け容れるということ。大きい小さいに関わらず、その内容に関わらず、誰かの好意に対しては心からの感謝を示すということですよ。
そもそも誰であれ、ホントのホントに孤独で誰からも愛されない人なんていない以上、必ずそこに愛はある。
<参考過去記事>
あなたは孤独じゃない。あなたが誰かのことを考えているように、誰かがあなたのことを考えている。
日常で当たり前のことすぎて、つい見落としてしまうことかもしれませんが、必ず誰かがあなたに好意を示してくれることはある。愛をあなたに注いでいることはあるんです。
もちろんそれは男女間の恋愛感情という意味だけじゃない。上司部下の関係や友人関係。居酒屋のカウンターでたまたま隣合わせた人も含めて、あなたが関わるすべての人との関係の中でいえること。
誰かがあなたに示す好意や、注ぐ愛に対して、当たり前のことと思わないことですよ。そこに込められた気持ちに気づき受け入れる。すなわち心で感謝し、それを示すことです。
とはいえ、いくらなんでも受け容れられない相手もあるでしょうし、妙な勘違いをされても困ることもあるので、そこはまあ大人の対応で。
■素直に受け入れれば心が穏やかになる。
そこに愛があるのに、それに気づかない。気づいても受け容れようとしない。だから自分が認められていないような気分になる。なぜか寂しい気分になるしイライラする。
でもね、実際には上でも言ったように日常の些細な出来事の中、他人との自然のやりとりの中に愛は溢れているんです。それに気づくかどうか。気づこうとするかどうか。そして受け入れるかどうかでしょう。
気づいて受け容れる。そこでわざわざ拒否らない。全然私なんかダメですよー。そんなことないですよー。なんて遠慮しない。ありがとう。そう笑顔で受け容れればいいだけのこと。
そうやって心穏やかになれれば、余裕が生まれる。余裕が生まれるから、今度はあなたが愛を返したり、誰かに愛を注ぐことができるってもんでしょう。
まあ言ってしまえば、自分は誰からも愛されていないと、嘆いてるってのは自分本位な心があるということでしょう。つまり他人の心に対してアンテナ張ってない。相手の気遣いに対して配慮しようとする考えがない。自分で汲み取ろうとする意欲がない。
ちょっと考えてみればいいんです。相手の行動を少し洞察すればいいだけのことです。そこに相手の好意が見えるから。そこに相手の愛を感じることができるから。
余計な腹の探り合いは不要です。こいつのこの好意の裏には何があるんだろうか。この後にどんな要求されるかを考えると素直に喜べないぞ。みたいな駆け引きしててもしょうがないし、疲れるだけのことですよ。
だいたい相手もそんなこと考えてないし。まあ時と場合によってはそういうこともあるでしょうが、そんなのは現実には稀でしょう。誰だって自然な感情としての好意を、行動で示しているだけのこと。
そしたらあとはそれを受け容れればいいだけのこと。たったそれだけのことで、心が穏やかになるし、寂しさなんてのは消えてなくなる。妙な嫉妬の感情だって消えてなくなる。
<参考過去記事>
愛すれば距離は近くなる。憎悪や嫉妬を抱けば距離は遠ざかる。大切な人との距離は自分の心のありようが決めている。
いつでも心穏やか人を見てみれば実際そうじゃないですか。些細なことでも人の好意を受け入れる。そして何より、人の好意に気づいてくれる。だからいつでもニコニコしていられるのでしょう。
まずは今日一日の中での他人との関わりの中から、自分がどれだけ人に好意を持たれているか、どれだけ愛されているかに意識を向けて過ごしてみればいいんです。
一日が終わったときには心穏やかになれてるはずだから(^。^)y-.。o○