クソ真面目に頑張るよりも、不真面目に肩の力を抜いて頑張るほうが、問題は解決できる
■頑張ってるようで、実は頑張ってない
がんばってる俺かっけー。がんばってる私すごーい。でも結果が伴わないから自信がなくなる。泣きたくなる。心が折れる。
まあ泣きたきゃ泣けば。泣いて問題解決するならいくらでもどうぞ。
でも現実には泣いたって問題は解決しませんよ。泣いて許してくれるなら納期はいらない。支払期限なんかくそくらえ。
まあ泣けばすっきりしますしね。それで気分一新。新しい発想が生まれることもある。
<参考過去記事>
泣くから笑える。夜がくるから朝がくる。
とはいえ、まずは自分のことをちゃんと省みるのが先でしょう。
頑張りすぎとか言って自己憐憫に浸る前に、果たしてその頑張り方が正しかったのか。結果を出すための最適手段であったのか。
井の頭公園の池でカツオの一本釣りしようとしたってそりゃ無駄な努力。それで頑張って結果出なくて心が折れて泣くんだったら、まずは枕崎に行ってこいよと。
こんぼうでゴーレム倒せないと嘆く前に、まずはどうのつるぎぐらい買ってこいよと。レベル上げて金貯めてこいよと。
何かをやろうと意欲をもって行動できることは素晴らしい。でもそれによって得たい結果が得られないなら方法変えればいいだけでしょ。
だいたいね。自分頑張りすぎとか言ってるやつに限って実は何もしてねーから。頑張った気になってるだけですよ。
せいぜい頑張ってる自分でいることを頑張ってるくらいでしょう。
もし心当たりあるなら、少し考えてみたほうがいいですよ。
自分の今の取り組みは、求めている結果を得るための最適な方法なのだろうか。もし今の取り組み以外の方法があるとすればどんな方法があるだろうか。
そしてそもそも本当に自分はその結果を求めているのだろうか、と。
つまり頑張り方を見直してみるってことです。
手段方法は最適か、力のかけどころ、入れどころは最適か。予定どおりに進捗しているかどうか、と。
■手段ではなく結果にこだわる
要するにね。真面目でいい子ちゃんなんです。
自分で決めたこと、他人に決められたことに忠実に従っていて、それで結果が出るかどうかよりも、決まりに忠実であることを優先してしまっているんでしょう。
頑張ってる姿を示さないと他人から認めてもらえないと思うし、そういう自分でないと自分を認められない。
これをこの方法でやると言ったからやらなきゃ。こういうふうにやれと言われたからやらなきゃ。みたいな。
順序が違うでしょ。決めるのは得たい結果であって、手段はその次。だから得たい結果に合わない手段ならそれを変えればいいんです。
そこを見失うから、頑張ってる自分になることが目的化してしまう。だから結果が出なくて疲れるだけ。だからそんな自分を慰めるための文字通り自己憐憫に浸りたくなる。
うまくいってる人というのは往々にして良い意味で不真面目ですよ。
結果に対して真面目で誠実だけれでも、手段に対しては不真面目なんです。
だから昨日言ってることと今日やってることが違う。でも求める結果には誠実だから手段は変わっても筋は通ってる。
その上っ面だけみて軽薄と言う人もいるかもしれない。でも結果を出せればいいじゃないですか。誰のためでもない自分のため。そして自分が大切に思う誰かのためで。
やり方について他人がどうこう言おうが関係ない。自分が求める結果を得るための最適な方法であると、納得感があるかどうかが重要なんです。
もっと気楽でいいんじゃないですか。もっと不真面目でも。それに不真面目でも死ぬことないし。困ることありませんよ。
前段でも書いたように、行動を起こそうとする意欲は認めてあげていい。でもその意欲の使い方が誤っているのであれば修正するべきでしょう。
もちろん社会規範に照らし合わせて守らなければいけないことはある。でもその範疇を逸脱するようなことなんかありませんから。
本当の意味で頑張ってる人っつーのは、結果にこだわるために、柔軟な自分でもいられるよう自己修練をも頑張れる人のことなのでしょう(^。^)y-.。o○