自分や他人の失敗を指摘してそれを責め立てるより、どうすればもっと良くなるかを考えればいいだけのこと。
■それで得るものは何か
手痛い失敗があれば、その責任の所在をはっきりさせると同時に、自分であれ他人であれ、その責任のある人を追及したくなるものです。
時と場合によってはそれも必要なことでしょう。それがその人が同じ過ちを繰り返さないように、次はもっとうまくなれるように、という意味であれば。
それでも過去は変えられない。起こった事実は動かない。それで他人を責めて騒いであれこれ言ったところで、どうにもならないことはどうにもならない。
他人を責めたてて問題が解決することなら責めたてればいいでしょう。それが生産的で価値あることならば、それをすすんでやればいい。でもそんなことはあまりない。あまりどころかまったくない。
そこで使う時間と労力は、もっと生産的なことに使うべきでしょう。
どうすればその失敗をリカバリーできるか。どうすれば同じ失敗をしなくなるか。どうすればその失敗を教訓として、経験から学びを得ることができるか。
そのために時間と労力を使えばいいだけでしょう。
他人の失敗を責めたてて、自分の立ち位置が相対的に上になったような気になって、鬼の首でも獲ったかのような顔したところで、別に自分が成長できるわけじゃない。
自分の失敗を責めたてて、反省してる私可哀想って自己憐憫に浸ったところで、あなたの失敗で損害被った人のリカバリーができるわけじゃない。
反省してもらうことも、自分で反省することも重要です。でもそれは、目の前の問題から目を背けるためではなくて、目の前の問題を直視するためのものですよ。
まずはそれが何であれ、起こった失敗を、起こした過ちをどう修正するか、それによって陥った逆境からどう抜け出すのかを考えることが最優先でしょう。
そのためには、目の前で起こったことに対する意味づけと解釈を、どう自分にとって価値あるものに変えられるかを考えることも必要ですわな。
<参考過去記事>
図解あり/起こった事実は変えられないが、起こった事実の意味と解釈は自由に変えられる。
自分や他人を責める前に、まずは自分がその時点で最優先で取り組むべきことは何なのかを、ちゃんと冷静になって考えればいいだけのこと。
■どこに目を向けるか
それに何より、責めるということは至らない点を指摘し、そこにフォーカスするということ。わざわざそこにある問題をことさら取り上げ、そういうセルフイメージの形成を促進するということですよ。
言っておきますが、至らない点があれば改善すればいい。ただそれは、改善の必要がある場合であって、何でもかんでもマイナス要素をあげつらったところで、お互いの気分が悪くなるだけのこと。
なので、反省するなら、もしくは反省を促すなら、「こういうところがダメなんだ」ではなくて、「こういう良いところを活かせばよかった」と考える方がはるかに生産的ですわ。
まあ自分の悪いとこなんてだいたい誰でもわかってる。そこをわざわざ他人に責めたてられたところで、反省するより、その相手に対する青白い憎悪の火が燃え上がるくらいなもんですよ。
逆に、失敗をしても、その中から学びの機会をくれる相手とは、誰だって信頼関係深めたいと思うもの。
自分で自分を責めるにしても同じこと。わかってる自分のマイナスな点を、わざわざ自分でほじくり返しても、上でも言ったように自分のセルフイメージを、そのマイナスな自分に作り上げてしまうだけ。
繰り返しますが、責めるのが悪いことじゃないし、時と場合によっては責めなきゃいけない。それこそ鬼の形相でガン詰めしなきゃいけないことだってある。ただそれも、必ず生産的なことにつながるならば、という条件付き。
このブログでも一貫して言ってることですが、自分にとって価値あることにのみ目を向けることですよ。だとすれば、失敗で他人を責めたり自分を責めたりすることが、その失敗に対してどんな価値を生むかを考えてみればいいだけのこと。
価値が無いと思うなら、もっと生産的なことに目を向ければいい。どうすればもっと良くなるか。どうすればその失敗をリカバリーできるか。同じ轍を踏まないようにっするにはどうするか。そっちのほうが有益であることのほうが多いでしょ。
何かの失敗に遭遇したときに、他人や自分をつい責めてしまいたくなる。そんなときは一呼吸置いて考えてみればいいんです。自分がどんな反応をすることが、もっとも生産的なことなのか、と。
<参考過去記事>
人に優しくなれるのは心に余裕があるから。心に余裕がないときは、人を責める前に自分を振り返ろう。
どんなときでもまずはドーンと構えておけば、だいたいの問題は解決できるもんですしね(^。^)y-.。o○