答えはどうせわからない。だからはっきりしなくていい。どうせ進んでいるうちにわかってくる。
■「エイヤっ」と決めると答えがわかる
現状を冷静かつ客観的に把握しつつ、丁寧に推論を積み上げていくことで、ある程度の未来の予測はできる。それでもそれはある程度。
完全に確定した未来のことなど、わかる人なんかいないでしょう。そりゃよほどの超能力者なら話は別ですが、少なくともそういう人に会ったことはない。
にも関わらず、未来が確定するまで、もしくは確定して未来を保証されるまで、あれこれ考えているのは時間の無駄以外のなにものでもないでしょう。だってわからないんだから。
どんなにあれこれ考えたところで、明日、豆腐の角に頭ぶつけて死ぬかもしれない。地球外生命体に地球が滅ぼされるかもしれない。その可能性だってゼロじゃない。完全な答えなど考えたってわかるわけない。
もちろん、何も考えずに脊髄反射の思いつきで、何でもかんでも飛びつけばいいかといえば、それはそれで問題でしょう。せめて少しくらいは考える。ある程度の予測くらいはするものです。
現状を把握した上で、冷静に推論を丁寧に一つ一つ積み上げる。それでも未来は見通せない。だったらあとは「エイヤっ」で決めるしかないでしょう。
その判断が正しいか誤ってるか。その証明は「エイヤっ」の後にかできないものです。それに、どうせ「エイヤっ」の後にはわかるもの。
考えて答えの出ることなら考えればいいんです。でも考えたってわからないことを、考えるのは時間とエネルギーの無駄ですよ。答えは「エイヤっ」の後にしかわからないんだから。
それに何より、わからないと思っていた答えも自分で「エイヤっ」とやってしまえば、起こった出来事を自分の都合よく解釈しようとする、心の動きが起こるんです。だから結果的に納得のいく答えになる可能性も高まる。
<参考過去記事>
図解あり/自分で決めると結果はどうあれ納得できるし楽になる。流されると結果に不平と不満が募ってストレスになる。
出ない答えを探すことに費やす時間を、前に進むことに使ったほうが、結果的に望んだ答えを導き出せるというものんでしょう。
■人の心は他人にわからない。
人間関係でも同じことですよ。相手に自分が望む言葉を言わせようとして、実際にそれを言ってもらったところで本心ばかりはわかりませんよ。
人の心の中身なんてわかったフリはできたところで、ホントにわかる人なんてのはいないもの。だって他人のことだから。
だったらそこであれこれ考えること自体が無駄ですよ。表面上で何を言ってもらおうと、何を言われようと実のところはあまり関係のないことです。
もちろんその相手が何を考えているのか気になる。本心を知りたい。だったらこれも同じく「エイヤっ」で決めるしかない。どっかでその人を信じて一緒に歩き始めればいいんです。それが正解か間違いか、その答えは後になればわかるから。
仮に誤ってたなら、またやり直せばいいだけのこと。いずれにしても「エイヤっ」と決めてみなけりゃ答えはわからない。前進すれば嫌でもわかる。
まあ考えるまでもないようなこと、ちょっと冷静になって考えてみればわかることってのも、そりゃたくさんありますよ。そういうことまで「エイヤっ」でいくのは他人事で見ている分には面白いが、自分事なら疲れるだけ。だからそこはバランスの問題で。
一方で、やってみてわかること。経験しなきゃわからないこと。そこではじめて答えのわかること。むしろ実生活の中ではそちらのほうが多いでしょう。理屈と現実で違うことだってたくさんある。
<参考過去記事>
五感を通じた体験は、事前の予想を上回る。やってみること行ってみることで五感が刺激される。
なのにやったことのないことに悩んでみたり、わかるはずのない他人の心のことで揺さぶられたりしてんのも、まあ言ってみればホントバカバカしいことですな。
答えはどうせわからないんです。だから今の時点ではっきりなんてしてなくていい。進んでみれば、どうせ好むと好まざるとにかかわらず正誤がはっきりするんだから。
適度に考え、それなりに悩んだら、あとは「エイヤっ」で決めるだけってことですな(^。^)y-.。o○