図解あり/起こった事実は変えられないが、起こった事実の意味と解釈は自由に変えられる。
■まず事実を受け容れる
どんなに万全を期したつもりでも、想定外のことは起きるもんです。それが例え幸運であろうと不運であろうと。
でもそれが世の常というもんなでしょうな。
そりゃ全部が全部、想定の範囲内なら面白くもなんともないですわ。
それに困ったことに限らず、喜びや感動っつーのみ想定外だから起こるもの。最初からネタばれした話しを聞いても喜びや感動が薄れるってもんですわ。
日常の中に存在する、想定されるリズムや予定調和を一歩踏み出した、ゆらぎの世界にこそ、感情を揺さぶられる何かが存在するというもんでしょう。
<参考過去記事>
図解あり/結果を出しているのに評価されない人と、結果が伴わなくても評価される人の違い
とはいえ、それが喜びや感動につながるものであれば問題ない。
問題なのは、どちらかといえば感情にマイナスな影響を起こすような結果に遭遇したときのこと。
それがどんな事案であれ、起こった事実は変わらない。それは受け容れるしかないんです。望むと望まざるに関わらず。
あとはその事実を自分にとってどんな意味を持つことにするのか、それをどのように解釈するかということですわ。
というわけで、オルセー美術館に飾られてもまったく不自然ではない、21世紀を代表する印象派色霊アーティストの僕が図解にするとこんな感じでしょうか。
自損で新車に換わるかどうかという野暮なツッコミは置いておくとして、要するに起こった事実は変わらない以上、それはそれで受け容れる。その上で意味付けと解釈を変えるということ。
いちおう重要なので言っておきますがね、起こした事故を起きてない。軽損だ。と事実をネジ曲げて理解をするということじゃない。
■意味付けと解釈は自由
客観的な事実は受け容れる。そこネジ曲げるのは積極的でも何でも無い。まずは受け入れた上でそこから意味付けと解釈をどうするかという話し。
起こったことに対する事実をどう意味付けしようが、どう解釈しようが、そんなもんにルールはないですよ。あるのはあなたの固定観念と先入観だけで。
この場合は凹むもの。この場合は悲しむもの。こうなったらお終い。そんなルールはどこにもない。
いや、もちろん社会通念上、こういう場合はこういう感情を示したほうがいい、という空気というのはある。が、それはそれ。
だから一旦受け容れて、凹むなり泣いたりはすればいい。あとはそこで起こったことが、自分の人生や達成したい目標に対してどんな意味を持つのかを考えればいいだけでしょう。
<参考過去記事>
悲しみは一度受け容れてから解き放つことで自らの糧になる。拒んでいれば立ち直りから遠ざかる。
僕もあなたも、なぜ今があるのか。そりゃ過去にいくつもの試練を乗り越えてこれたからでしょう。そしてそのときどきの試練は必ず今の糧になっているはず。
ということは、今この瞬間に何か試練に遭遇したとしても、それは未来の自分にとって必ず肯定的な意味を持つ者に違いない。いやこれホント。
そうやって意味付けして解釈すれば、よほどのことでもない限り心が折れることなんてありませんよ。まあギリギリ折れそうになることはあるかもしれない。それでも最後の最後で踏ん張れる。
ちなみに、その心構えを知識としてではなく、当然の習慣として体得する上で役立つのが、ナポレオン・ヒル・プログラムだったり、クドいほどここでも案内している小川健次セミナーだったりするわけですわ。
まあ何よりも、自分で動かなきゃ何も起こりはしない犬も歩かなきゃ棒に当たらない。何かが起こるということは、何かをやってる証拠でもある。
まずは主体的に動いている自分を認めてあげるだけでも、次への可能性が見えてくるってもんですわな(^。^)y-.。o○
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